MENU

[1]松前道廣1:才智国中におよぶものなし

北海道周辺にロシア人の姿が現れ始めた頃、松前藩では七代藩主資廣が逝去し、数え十二歳の長男が家督を継ぎます。名は外記、後の道廣です。母(辨子、中納言八條隆英の娘)は道廣を産んでまもなく世を去っているので、少年道廣の周囲は皆、自分の家臣という状況になりました。明和二年(一七六五年)のことです。

道廣と直接交流のあった儒学者・大原左金吾は、その性質について「生まれつきかしこく、才智国中におよぶものなし」と評しています。剣や槍などの武術にも優れ、特に馬術は抜きん出ていたとされます。書画・茶・香・音曲などの諸芸もすぐに上達し、時の有力大名とも積極的に交際する社交的な性格だったようです。

半面、すこぶる勝手気ままであり、傲慢で事を好み、自負心が強くて人の下に立つことを嫌い、色を好んだといいます。特に道廣二三歳の年、結婚五年目の正室知子(敬姫、従一位花山院常雅の娘)が死産の末に亡くなってからは、「枕席を奉ぜしむるもの」数え切れず、吉原の遊女を落籍すること二回に及ぶ、と伝わっています。

幼くして両親を失い、藩主となった道廣には、良き師となるような人はいなかったのでしょうか。なんというか、子供の頃の全能感を持ち続けたまま、大人になったような感じがするのです。ロシアと北方への関心が高まるこの時代、道廣というキャラクターの登場は、松前藩にとって実に重たい巡り合わせとなりました。

(続)

この記事を書いた人

目次